実家から電話が有った。
留守電に母の声が吹き込まれた。
その声は、怒りの感情を押し殺しながら、丁寧に話しているのが良くわかった。
ここ数年お中元は、夫の実家の手配してくれている桃をお世話になっている人に送っている。
今年は勘当返し?をしていたので、私からは言い出せなかったが、夫が気を利かせて手配してくれたようだ。
私は、モラルハラスメントの父親の元で育った。
ずっと母は被害者だと思っていたが、実は共犯者である事に気づいた。
母が父に苦しめられた事は確かだけど、共存していこうとするうちに価値観が狂ってしまったのかもしれない。
言葉と冷たい視線、無視による暴力。
いつ爆弾が爆発するかわからないとおびえる日々。
1人の人間として認められない辛さ。
私の暮らしはこれが日常だった。
私は転勤により家を出るとき、母親に泣いてお願いをした。
今にして思えば、お願いをする事でも無かったのでは、と不思議に思う。
「父に私の感情を伝えさせてくれ」と。
脱出できる自分が最後にできるのはこのくらいだと思った。
ここで父に問題提起をし、父を変えられ、残される母と弟が少しでも楽になればと思った。
その結果勘当されても、かまわなかったし、それを通過せねば私は一生この傷たちを引きずると思った。
母はそれを頑固に拒否した。
父が普通で無いことはわかるが、それをどうにかしていくのは、貴方の自由と問題なのだと。家を出てしまえば、もう関係なくなるから、ひっかき回すのは止めてと。
(これも今にして思えば変な事だ。傷をつけられたら、相手にその痛みを伝えたり、謝罪や償いを求めるのは変な事なのだろうか? 身体に傷を負わされたら、治療と謝罪を求めるのに。)
その代わり私は母に条件を付けた。
以後私の暮らしに父を関わらせない事、だ。
私の住居にも来て欲しくないし、父から直接連絡をする事もさせないでくれ、と。
その後、結婚の報告に行ったときも、母にその約束を確認した。
しかし、母は父に都合の良い話しをし、ともすれば忘れているらしかった。話題がいつの間にか都合のいいように変えられていた。
私は父の機嫌におびえる日々が、脱出した先でも繰り返されるのが嫌だった。
その度に、母に誓いを思い出させた。
嫌な感じだった。
やはりというか、誓いは破られ、勘当された。
寂しい反面、ほっとした。
もう振り回されなくて済む。
しばらくしてから、母からメールが来るようになった。
最初は無視していた。
ある日、「私はもう勘当されたから、関係ない」と返信してみた。
返信は、「誰も勘当なんてしてないよ。何があっても親子なんだからね。はーと」と返ってきた。吐き気がした。
あれだけ罵倒、傷つけておいて、無かった事にするのか。
人には少しの言葉の齟齬も許さず、謝罪をしつこく要求するのに、何も無かった事にするのだろうか。都合のいいときだけ「親子」でいる事を求めるのか。
怒りと吐き気でくらくらした。
結婚するとき、仲人はいらない、と言ったのに、仲人を立てることを強要したのは両親だった。しかし両親は、仲人が会社を辞めたらすぐ連絡するように、と私たちに命じた。お中元・お歳暮を贈る手配を辞めるからと。
私達の仲人は、私が名古屋出身で有る事を知った上で、引き受けてくれた。名古屋出身者にとって仲人は一生その夫婦の事を心配る必要がある責任がある。それを知った上だ。そこまでの事はできないけど、と言われたが、何かにつけて心配りをしてくれる。
もう仲人は、私達の会社を引退してしまっているが、それを実家に伝えたいと思わないし、伝えるつもりはない。
今でも、仲人にご挨拶の品を贈っているのかはわからないが、仲人が会社から居なくなった事を私に伝えることを命じた時の、母の冷たい表情と口調を思い出す。